2021年4月15日木曜日

報告:                                     4.3「三里塚に生きる 石井紀子さん追悼の集い」(実行委員会)


 

 4月3日、文京区民センターで「三里塚に生きる 石井紀子さん追悼の集い」(実行委員会)が行われ、99人が参加した。

 紀子さんは、2020年3月11日、交通事故で急逝(享年67)した。紀子さんを知る仲間たちは、驚きと悲しみが、この一年続いた。そんな中、有志たちのよびかけで急逝から1年となる2021年4月に東京で「石井紀子さん追悼の集い」の企画を実行委員会として取り組むことになった(2020年12月)。

 実行委は、「『石井紀子さん追悼の集い実行委員会』参加・協力の呼びかけ」を全国発送し、294(公表167+非公表127人)人の仲間たちが呼びかけ人になってくれた。紀子さんが多くの友人、豊富なネットワークを構築していたことの現れだ。必然的に集いも紀子さんの三里塚・土・農業との関わり、空港反対の闘いなど多面的な側面に迫っていくような内容にしていこうと論議を積み重ね、この日の集いを開催することになった。


 会場には、写真家・島田恵さんが撮影した「泉州から三里塚へ 女たちのゆっくリレー(1987)」のアルバム5冊が展示され、多くの参加者が懐かしく見入っていた。

 1984年から島田さんが石井宅に住み込み撮影した東峰裁判支援や空港包囲マラソンの写真を、紀子さんは三里塚50年集会(2016)で展示した。この集会で石井さんは「闘いの思い出は宝の物のように輝いている」と述べ、写真に添えた。

 手書きの説明には、仲間への感謝や思いやりが表現されていた。その展示の様子や、パンフレット「女が走れば北総台地に風が吹く」から当時の写真も掲示された。

 暫定滑走路計画が動き出した1999年、石井さんは「力を貸してください」と呼び掛け、個人通信「赤い風の村から」を発行した。同年9月、東峰を賑やかにする集いは、それまでの三里塚集会とは異なり、オリエンテーリングという形で東峰の農業や暮らしを参加者が知ることになった。集落の上空を飛ぶ飛行機には「畑やニワトリの上を飛ばないで」と鶏舎の屋根に大きく書いて訴えた。そうした写真も展示された。


 集会の司会は、鈴村多賀志(田んぼくらぶ)さん、野島美香さん。

 開会の冒頭、紀子さんを哀悼する黙祷を捧げた。

 第1部では、紀子さんの映像12本が上映された。

①2020年1月 三里塚反対同盟20年旗開きでの発言

②1977年 こどもを背負ってデモ参加

③1977年 鉄塔撤去のテレビ報道を見つめる

④1984~87年 スライド「女たちの三里塚」から

⑤1987年11月 木の根・自主耕作地囲い込みへの抗議行動

⑥1989年10月 横堀・再建した労農合宿所を守り抜く闘い 

⑦1999年10月 暫定滑走路を作らすな東京集会での発言

⑧2002年3月 暫定滑走路供用直前、東峰現地行動での発言

⑨2002年4月 供用開始に抗議する現地集会での発言

⑩2006年4月 騒音下での闘い、テレビインタビュー

⑪2006年12月 三里塚40年たすきわたし集会での発言

⑫2014年2月 半世紀に及ぶ闘い、海外テレビのインタビュー

 実行委員会に寄せられた映像からは、今にも紀子さんの笑顔、怒り、奮闘、時には運動への厳しい指摘をする姿が飛び出てくるようだ。 


  第2部はトーク。紀子さんの友人たちが次々と語った。

 鎌田慧さん(ルポライター)は、「東京新聞(20・3・17)のコラムに紀子さん追悼として『土と闘争に根を張って生きた。それで得た人生です。このあり方を続けています』と彼女は爽やかに語っていた。』と紀子さんが語っていたことを引用した。ワンパックには、いつも通信が入っており、それをまとめたのが「たたかう野菜たち」(三里塚微生物農法の会・ワンパックグループ 編/現代書館)としてまとめられている。ウーマンりヴから三里塚闘争に入り、都会から農村にお嫁さんにくることはかなりの決意だったろう」。

 「彼女が言っていたことで感動したのは、『確固たる農業観、農民観もなく、ただ自分たちのような土に生き、土に死ぬ百姓にならねば』ということを一つ覚えを繰り返してきたと言ってたことだ。見事な人生だった。ときどき三里塚闘争のことを身体の中に入れておきたいという思いできた。三里塚闘争は65年闘われ、空港は完成していない。農業をつぶして日本はどうするのかを三里塚闘争は主張してきた。闘いを引きついでいきたい」と発言した。

 島田恵さん(映画監督、写真家/動画メッセージ)は、「東峰裁判救援コンサート(日比谷野音/1985・5・19)をきっかけに東峰裁判を支援し、若いかあちゃんたちとの交流が始まり、写真を撮りはじめた。田植え、農作業も手伝った。そんな私を見つめてくれたのが紀子さんだった。石井家の離れに数か月住まわせていただいた。20代の写真家を応援してくれた。『三里塚に生きる』上映会で野菜を販売していた紀子さんと再会した。『福島 六ヶ所 未来への伝言』、「チャルカ~未来を紡ぐ糸車~」を制作し、紀子さんは観にきてくれた。紀子パックの野菜を食べると元気が出て、今だったら竹の子です。私が社会的な問題に関心を持ち、写真や映像という形を通して世に問うてこれたのは、最後まで信念を貫き通した紀子さんがいたからこそと思っています。紀子さん、ほんとにこれまでありがとう」と述べた。

 続いて藤川泰志さん〈みさと屋〉、蒔田直子さん(京都)、代島治彦さん(映画監督)、梶川涼子さん(成田プロジェクト)、田んぼくらぶ・鈴木弘子さん(映像とメッセージ)から紀子さんとの交流、様々なエピソード、励まされたことなどが語られた。

 山崎宏さん(労活評)から加瀬勉さん(元大地共有委員会〈Ⅱ〉代表)、柳川秀夫さん(三里塚芝山連合空港反対同盟代表世話人)のメッセージが紹介された。


 加瀬勉さんのメッセージ(要旨)

 「三里塚空港反対闘争50年余の歳月。闘いを共にした多くの人が身罷っていつた。私は数いきれない墓標を背負い、これらの人々の闘いの意志を引き継いで闘いを堅持して生きている。石井紀子さんの新しい墓標がまた一つ増えた。

 紀子さん安らかにお眠りください。

 私は虚偽に満ちた月並みの追悼の辞を述べるつもりは毛頭ない。

 三里塚は天は騒音地獄、地上は空港拡張建設、地の底を墓を掘り起こし、身罷った人々の死体を骨を暴いて空港建設を進めている。三里塚の天地、そして地の底、三里塚には人間の尊厳が守られ安らかに眠る場所などないのである。

 三里塚は生者死者一体である。

 紀子さん。成仏しないでほしい。さらに怨念を恨みの炎を闘いの情念を共に燃やしてゆこうではないか。自らの安らぐ場所を建設するために。

 2021年4月3日 加瀬勉」


 平野靖識さん(三里塚物産)は、「東峰の出荷場を訪ねると、紀子さんはワンパックに入れる通信をお茶の時間の時、書いていた姿を思い出す。いつもものを考えていて、何を伝えたいのか、整理されていたんじゃないかな。紀子さんの喋りの映像をなつかしく拝見したが、紀子さんの語りは、「紀子節」と言ってます。語りを起こしても、そのまま文書になるほどでした。いつも土にはたらきかけて、野菜を作る。それを待っている人達がいる。そういう自分の生き方の自信があってのことだと思う」と述べた。

 さらに「紀子さんとは、2回ほど議論があった。一つは、青年行動隊が国とのシンポジウムに入っていくとき、紀子さんは話し合いに応ずることに対して路線の変更ではないかと批判し、私に問うてきた。もう一つは、暫定滑走路供用後、ワンパック出荷場は、騒音直撃で若い人たちがいたなかでどうするかと議論になった。東峰出荷場から新しい出荷場に機能移転することになった。紀子さんにとっては、それも原則から外れるという立場だった。紀子さんは闘いの原則を大事にした人だった」と語った。

 閉会あいさつが山口幸夫さん(一般社団法人三里塚大地共有運動の会・代表理事)から行われ、「ワンパックをやろうと言っていたのは、小泉英政さんだった。1972年相模原戦車闘争の時、暮らしをつくる会に小泉さんがやってきてワンパックをやりたいと提案してきた。そしたら山口雪子さんが『それをやりましょう』と賛同した。実は相模原戦車闘争は、男の闘いだった。山口雪子さんは、あまり言いませんでしたけど、『これでは人々がちゃんと暮らしていけない』と言っていた。紀子さんは、ワンパックという名称にこだわり、論議したことがある。夫婦二人で紀子パックを食べていました。紀子さんは人間の生き方について、考え方を変えずに貫いてきた。私たちは深く共感してきた。今日は、大事な場所を共有することができた。ありがとうございました」と発言し、紀子さん追悼の集いを終えた。

(Y)

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