2023年7月10日月曜日

報告 三里塚フィールドワーク

  7月2日、三里塚フィールドワーク実行委員会は、「見て 聞いて 学んで バスで行く 三里塚フィールドワーク 成田空港反対運動の今」を行った。
 東京八重洲から三里塚現地に向かった。フィールドワークのコースは、①岩山地区─「空と大地の歴史館」 ②木の根地区─「木の根ペンション」 ③東峰地区─東峰共同墓地(大木よねさんへ献花)、らっきょう工場 ④横堀地区─横堀農業研修センター、横堀鉄塔、案山子亭だった。
 各コースについては、当日配布された資料を紹介する。

 ①空と大地の歴史館

 成田空港会社が運営する資料館。2011年6月23日に開館。シンポジウム・円卓会議を経て、『成田空港と地域をめぐる歴史的経緯とともに当時そこに関わった様々な立場の人々の苦悩と想いを正確に後世に伝える』ことを目的に、1997年成田空港地域共生委員会の歴史伝承部会が発足。その後、空港会社に事業が引き継がれ、歴史伝承部会(のちに歴史伝承委員会)が収集した資料を展示する施設として開館した。
 歴史伝承委員会が調査・収集した資料は地域振興連絡協議会(会長千葉県知事)に帰属。


 ②木の根ペンション・プール

 木の根地区は、下総御料牧場用地が払い下げられ、1946年に入植・開墾が始まった。反対同盟が結成され、1967年住民により木の根団結小屋が建てられる。団結小屋は1989年、木の根ペンションとして生まれ変る。2000年、芝山鉄道ルートにかかり撤去を求められるが、曳屋により現在の場所に移転。

 自力で畑にかんがい設備を作る運動が1979年に起こされた。風車は地下水を汲み上げる動力として、プールは水を溜めるため池として作られた。風車は故障続きだったが反対闘争のシンボルとして残った。ため池は「闘争には楽しみも必要」という小川源さんの発案でこどもたちのプールになった。
 このプールで遊んでいた大森武徳さんが2010年から清掃を開始、2011年にプール復活。2022年にはクラウドファンディングにより補修を行った。木の根プール復活後は、『生産者と消費者を繋ぐ場』『農村と都市部の交流の場』というコンセプトが、新たな形となって活性化され、音楽イベントなど様々なジャンルのイベントを通して、世代を超えた交流の場所として多くの人々に愛されている。

 

 ③東峰地区


 東峰共同墓地(大木よね墓)

 東峰は戦後の開拓。県有地が払い下げられた。大木(小泉)よねさんは、隣接する古村・取香(とっこう)に暮らしていた。取香地区は移転をきめていたが、よねさんは反対を貫いた。1971年9月20日、自宅と畑が強制収用された。親しかった東峰の人々が提供したプレハブに移り住んだ。収用から2年後に亡くなり、東峰共同墓地に土葬された。補償問題は長年放置されていた。2015年養子の小泉英政さん美代さんと空港会社が和解。勝ち取った生活補償は「よねさんからの寄金」として辺野古基金など9団体に送られた。42回目の命日を前に「よねさんの碑」が建てられた

 

 らっきょう工場

 有限会社三里塚物産は有機農産物の加工と販売を目指して1978年に設立。伝統的な製法を基本とした、添加物を使用しない製品を作り続けている。地域では親しみを込めて「らっきょう工場」と呼ばれている。設立から40年余りが過ぎた今、周辺地域には有機農業が広く根付き、新規就農する多くの若者たちも集まることから「有機農業のメッカ」とも呼ばれている。

 

 ④横堀地区

 横堀農業研修センター

 横堀地区は、明治末期に開墾が始まった高台の集落。移転した農家跡の共有地に1977年5月、三里塚闘争連帯労農合宿所が開設され多くの団体、個人により活用されてきた。1989年火災で焼失するが、反対同盟は1日でプレハブ小屋を再建。翌日、土地を囲い込もうとする空港公団・機動隊を反対同盟は撃退した。1997年労農合宿所は閉所し、その後は横堀農業研修センターとして、反対同盟旗開きや田んぼくらぶ、ジャガイモ運動の拠点として活用されている。周辺の竹やぶは春になるとタケノコ掘りが行われている。研修センターと案山子亭の看板は、横堀の熱田一さんが書いた。
 第三滑走路計画では誘導路にかかる。昨年、空港会社は周辺の竹やぶを伐採。今年6月、空港会社から反対同盟や共有者に対し明け渡しを求める文書が届いた。今後は土地取り上げの裁判提訴が予想される。

 

 横堀鉄塔・案山子亭

 当初の横風用滑走路予定地の真ん中にある横堀団結小屋。1977年、要塞建設のため穴堀りを始めるが用地内のため中止。要塞はB滑走路アプローチエリアに移して建設され開港阻止闘争では激しい攻防が行われた。1986年二期工事監視用塔として反対同盟が鉄塔を建設。高さ30メートルあったが、安全のため2017年に上部を撤去した。
 案山子亭(かかしてい)は、農作業の休憩場所として1988年に建てられた。鉄塔下にあるのは、沖縄の彫刻家、金城実さんが作った「抗議する農民」像。岩山大鉄塔、労農合宿所を経て、横堀鉄塔に置かれた。管制塔占拠闘争で逮捕され、長期拘留による精神的苦痛を受け、1982年自死した原勲さんの墓があり、毎年4月には墓参と花見が行われている。

 


 木の根ペンションでは、平田誠剛さん(三里塚管制塔被告団)、大森武徳さん(らっきょう工場/続・木の根物語プロジェク
ト)のお話があった(要旨別掲)。
 東峰共同墓地かららっきょう工場では、平野靖識さん(らっきょう工場)のお話が行われた(要旨別掲)。
 さらに横堀地区に向かった。横堀農業研修センター、横堀鉄塔・案山子亭を通して空港の全景を把握し、巨大開発に対する農民の闘いの意義、空港機能強化と第三滑走路建設の問題などについて考察を深めていった。
 帰りの車中、参加者は、フィールドワークの感想などを出し合い交流を深めていった。(Y)



 
 
 ■平田誠剛さんのお話(要旨)

 成田空港は、1978年3月30日から供用開始する予定だった。全国の仲間たちとともに1週間連続の闘いを組んでいた。すでに77年から機動隊と鉄パイプでぶつかり、火炎瓶が乱れ飛ぶ闘いを行っていた。
 管制塔被告団は、別行動で3月25日の夜に地下道に入り、26日午後1時に地上に出て、空港内に突入した。管制塔に駆け上がり、管制室を壊した。9ゲートでは先行してトラックを先頭にした突入部隊が機動隊と闘った。私は逮捕され、8年ほど獄中に捕らわれた。11年も獄中にいた仲間もいた。
 それまで国・空港公団のやり方が強引だったが、管制塔事件によって反省に追い込まれた。「話し合い」と言っていたが、裏交渉も進めていた。最終的に熱田派は、国に対して「強引なやり方は、だめだ」ということを認めさせた。
 その後、現闘の仲間、三里塚に残った人、だめだと判断した人たちがいた。そういうなかで3・26闘争を闘った大森万蔵さんの息子である武徳さんがこの地で住んでいる。新しい闘い方を行っている。
 闘いは終わっていない。柳川秀夫さんなど農業で暮らしている人達もいる。三里塚から各地域に入って様々な闘いを行っている人もいる。
 私は今、いわきで住み、震災、原発事故被災の仲間たちと交流している。やはりその根っこにあるのは三里塚だ。
 現闘の女性に対するひどい性差別事件があった。長い間悩んできた。だから5年前の管制塔占拠40周年の集会も行っていいものかと議論になった。検証する作業を続けている。女性たちの声を上げる取り組みと繋ぎながらやっていきたい。

 ■大森武徳さん(らっきょう工場/続・木の根物語プロジェクト)の話(要旨)

 トン汁は三里塚の野菜を使ってます。ぜひ食べてください。らっきょう工場には、らっきょうがたくさんありますから、ぜひ購入してください。
 私のお父さんは社会運動から三里塚闘争に参加した。全国から駆けつけた若者の一人でした。農民と政府が対決する中、自分はどのように生き方ができるのかと模索しながら団結小屋で生活していた。1978年の3・26闘争ではトラック部隊のメンバーとして闘った。
 開港後も闘いは続き、その中で私が生まれた。木の根の小川源さんなど反対派の農民によって土地が提供され、子どもたちのために木の根プールができた。大きな風車もあった。やがてペンションもできた。
 2016年ごろ脱サラの人が三里塚を学びたいということで木の根に来ました。その友達がここでイベントをやりたいと提案し、コラボでやり、大盛況でした。
 それ以降、コンサート、盆踊りなど様々なイベントを取り組み、人の輪が広がっていった。YouTubeを観て、事前に三里塚のことを勉強してくる人達も参加するようになった。「おかしいことはおかしいじゃないか」と声を上げていくきっかけともなった。今後も知恵を出し合い、交流を深め、人の輪を広げていきたい。
 僕が小さいころに胸に刻んだように、今の三里塚を子どもたちにも伝えていきたい。ここを大事にしていこう。

 ■平野靖識さん(らっきょう工場)のお話(要旨)

 7月4日は、三里塚にとって運命的な屈辱的な日だ。57年前、1966年7月4日に羽田に変わる国際空港として成田市三里塚、芝山に持ってくることを佐藤栄作、友納武人千葉県知事の合意のうえで閣議決定した。
 この日から三里塚の農民は闘い続けてきた。反対同盟ができた時は、一千戸が参加していた。今は、用地内に土地を持って闘っている農民、関係者は5戸、三里塚物産がある。
 大木よねさんの土地が強制的にとられたのが、1971年、強制代執行の年だ。農民が主体的に闘ったピークだった。その後も空港公団と農民との闘いは長く続いた。1978年5月に4000m滑走路1本で開港した。4月に三里塚物産を設立している。
 私は地元の農民ではなく、1969年3月、単身で戸村一作委員長を訪ねた。農民と苦楽を共にできたのは、そういった経過が要因だったかもしれない。
 さらに、1年前に中国を訪問していた。当時はプロレタリア文化革命の最中だった。青年たちは農村に入っていった。
 日本ではベトナム反戦運動が高揚していた。日米安保体制に対する闘いが展開されていた。若者たちは社会を支えることを否定し、大学闘争、街頭闘争、平和運動を取り組んでいた。
 私は中国の青年たちのように千葉の農村に入っていった。1971年、強制代執行の年で厳しい闘いの真っ最中でもあった。
 70年代は、日本各地で公害問題が起きていた。農民にとっては、農薬と化学肥料の問題があった。水俣公害は、農薬と化学肥料を作っていく過程で廃棄し起きた。
 三里塚の青年行動隊は、この問題を取り上げ、議論を深めていた。公害を生み出す農薬と化学肥料をつかうべきなのかとアプローチしていった。水俣の人達のチッソ会社へ抗議し、三里塚に応援にも来た。交流が深められていった。
 その結果、「三里塚の百姓は近代合理主義の象徴ともいえるような空港、航空産業に対して闘いをいどんでいるが、農薬と化学肥料を使う近代農法でいいのか」と問いかけた。
 やがて微生物農法による自主耕作運動の取り組みを開始していった。すでに茨城の大規模開発に反対する農民たちが微生物農法によってある程度の成功を収めていた。この闘いに学び1972年ごろから微生物農法、すなわち有機農法の取り組みを始めた。
 その後、残念なことに反対同盟は、1983年3月8日に熱田派、北原派に分裂した。さらに北原派から小川派に分裂した。最後まで闘いを続けた農民は、有機農法に帰結した人達が闘いを続けている。
 成田空港問題シンポジウム(1991年11月)、成田空港問題円卓会議(1993年9月)を通して政府は「用地の取得においては、いかなる状況のもとにおいても強制的手段を取らない」ことを確約し、土地収用法の収用申請を取り下げた。
 農民は大量生産、大量消費、ゴミの山ではなく、解放された土地として「地球的課題の実験村」を提起した。この考え方は続いており、三里塚ワンパック野菜などが取り組まれている。
 だが現在も空港のさらなる機能強化ということで自然破壊が進められている。そうではない地域作りを行っていきたい。