2019年10月14日月曜日

加瀬 勉

 台風のために停電となった。庭にテーブルを出して一汁一菜の夕食をとった。仲秋の名月の光を全身に浴びて。稲刈りだ、乾燥機だ、籾摺だと機械の音に身を取られていたが気が付くと泌みるような虫の声である。月の光を浴び、虫の声を聴いての夕食、こんな至福のひとときが台風一過に訪れるとは夢にも思わなかった。停電にテレビ、パソコン、読書から解放され、幼い時から学校でよく勉強しろ、よく本を読めと言われつづけてきた。それから解き放されての初めての解放感である。
 雨情の「十五夜お月さん」、千葉県木更津の証正寺の「狸ばやし」「竹取物語」「荒城の月」「浜千鳥」「月の砂漠」は千葉県御宿の砂丘で生まれ、夢二の「宵待草」は九十九里銚子でうまれた。「名月来たって相照らす」「名月松間に照り清泉石上を流れる」は神童とうたわれ一三歳のときより玄宗と揚貴妃に使いた王維の詩である。「月向蕎麦を照らし霜のごとし」「遠く山月を望み故郷を想い。地に目を伏して父母を想う」、詩聖李白の歌である。湖に浮かんだ月を捕ろうとして李白は溺れて死んだ。
 「月落ち烏泣いて霜天に満つ」張継の詩、「月故郷に明らかなり」杜甫の詩、「水月は禅静寂に通ず」は銭起の詩、「関月冷ややかにして相したがう」雀塗の詩、仲麻呂の長安の「三笠の山にいでし月かな」黄土広原ヤオトンから観る月、湖南省毛沢東家の前の池に懸かる月、黄河、揚子江の流月フランス、ラルザック高原に懸かる月、屈原が投身自殺した洞庭湖ペギラの湖水に浮かぶ月「信州は月と仏おらが蕎麦」一茶、尼子の再興を願って月に向って「吾に七難八苦を与え賜い」と祈ったのは山中鹿之介。
 「群書類聚」を書いた塙己一の夫婦の月物語、炭坑節、貫一とお宮の今月今夜の熱海の月、東海林太郎の「名月赤城やま」、田端義男の「大利根月夜」、雨情の「船頭小唄」「灯火の芯切りすぎて灯は消ゆる おりこそよけれ山の端の月」、いろいろな月と人生が走馬灯になって頭を過る。
 今から五〇年前、三里塚バス停から御料牧場の厩舎の前を通り裏手の牧場に沿っての獣道を歩き、松林の細道を降って木の根の小川明治開拓組合長を訪ねた。一日援農して空港反対同盟を結成すべきだと要請し、明治さんの牛舎の裏の木の根公民館に泊めていただいた。
 畳の上の砂ぼこり、冷たい白い竈の灰、新聞紙を引いて下着の入った風呂敷包を枕に眠った。真夜中に蚊に刺されて目が覚めた。ガラスの破れから煌煌と照る月明かり、夜露に濡れた桑の葉に照りかえる月明かり、俺の運命はどうなるのであろうか。占ってもうらないきれない。迷うことは無い。なるようにしかならない。腹をくくって戦うことにしょうと三里塚木の根の月に誓ったものであった。
 高村光太郎の妻千恵子は、「東京には本当の空がない、安達太良山の空がほんとうの空だ」と詠んだ。三里塚に、北総地域には本当の空はなくなってしまった。開港以来、飛行機とゆう鉄塊が空を圧し、地を圧し、プレスとなって住民を押しつぶす騒音地獄をつくりだした。三里塚にほんとうの空はなくなってしまったのだ。空を返せ、空に繋がるすべてを返せ。静かな月明かりの空を返せ。
 困難なとき、大事に当たるときは心を広くして遠くを見つめ、細心にして大胆に決断し行動をとらねばならない。しなやかに感性を開放し、正常心を保って困難に立ち向かう必要がある。困難は自分の能力、人間性を試す絶好の機会である。今その時がきたのである。

 夜明け

 夜の明けきらぬ三時に全壊したビニールハウスの整理にとりかかった。夜明けの星が次々に消えて、夜が白々と明けてきた。かすかに東の空が朱に染まってきた。朝明けである。新しい生命の宇宙の夜明けである。街灯、コンビニの二四時間営業、飛行機の爆音、村は昼と夜の区別がなくなった。停電で本当の夜が戻ってきたのである。
 「日出でて作し 日入りて憩う 井を堀りて飲み 田を耕して食らう 帝の力いずくんぞ我にあらんや」、中国古代〈堯〉の詩の言葉である。「水と釜と火」、これは開拓農民作家吉野せいさんの作品の思想の世界である。
 福島で地震、原発、津波、火事の深刻な複合災害が起きた。役場の庁舎も押し流されて職員が犠牲になった。災害は大小にもかかわらずこのように想定外のものである。この時、自分はどうするか。自分の命は自分で守る。その時に、この中国の古代の思想と吉野せいさんの思想が必要であると私は思っているのである。
 
 自然災害と三里塚闘争

 台風の災害で停電、一五日余り電気が来なかった。多古町町営水道が止まって生活用水が利用できない非常事態が発生した。
 北総台地の野付村農民は、低地の沢の流れや小沼、池から水を負い牧々の野馬に水を飲ませ、自らも自然用水を生活に利用してきた。明治維新、北総の牧々に強制移住させられた無産浮浪の徒は井戸もなく沢の流れや池の水を生活用水にして開墾の重労働に耐えて畠を拓いてきた。
 大正に入って横堀に熱田一さんの両親が開拓に入った。熱田さん屋敷の東から竹やぶ細道を降り、木の根谷津からの細い流れの水をくみ上げて崖を登り生活用水としてきた。木の根の源さんは戦後三里塚に入植したのであるが、源さん所有の炭焼き小屋の下が水田終わりである。この根方から清水、湧水が出ていた。これを生活用水に利用してきた。柳川秀夫君の祖父は、多古町東台から大正時代に香山新田に入植して山野を拓いて現在の畠を創り出した。
 明治、大正、戦後の入植、縄文、弥生のような住居を立て、焚火、月明かり、そして沢の流れの水を飲料水、生活用水として利用して北総台地の人々は生きてきた。我々はこれらの人々の歴史に学び、共に闘争を五〇年にわたって堅持してきた。二〇世紀は帝国主義の植民地支配に対して民族独立、祖国解放闘争の歴史の時代であった。中国革命の長征では履いていた革靴、革のバンドを煮て齧って飢えをしのぎ闘争を堅持した。
 三里塚闘争においても、三里塚解放戦線、自前の農業経営等の方針を掲げて闘ってきた。行政が管理する上水道、農民の水、自然の水、水資源を収奪し支配し大資本が売りさばいている。この水がなければ我々は生きてゆけないのか。否である。自然との共存、共栄、自然の恵みに感謝し、自然の環境を大切にする生き方を貫かねばならない。
 空港建設反対闘争、日本社会党現地闘争本部。富里大堀で生活したときには、電気もなく、水道、井戸もなく、トイレもなかった。立沢集落の流れで洗濯し、身体を洗い、飲料水は根木川源流の湧水を利用してきた。トイレは富里の山野、自然の中であった。私はそこで生活をつくり闘争を堅持し、反対同盟を組織し生きぬいて三里塚に転戦していった。

 災害と飲料水

 私たちは福島の災害を経験した。福島の災害は地震、津波、原発、火災等の複合災害であり、原発の権力犯罪、電力資本の犯罪と地震と津波の自然災害であった。
 役場の庁舎まで押し流され職員が殉職された。この時に自らの命を守るためにどのような行動をとればよいのか。災害は大小にかかわらず想定外のことが次から次に起こる。それにどのように対処すればよいのか。
 千葉県に大きな災害をもたらした台風は、風速二五mなら水稲育苗ビニールハウスは被害をうける。風速三〇m、三五m、四〇mならばビニールハウスは勿論、住居も倒壊の被害を受ける。この被害は防ぎようがない。身の安全をどう確保するかである。停電は必ず起きる。感電に注意である。停電すれば水道、風呂、トイレ、冷蔵庫、台所は使いなくなる。
 ①飲料水の確保。私の集落五〇戸のうち、昔の釣瓶井戸として利用できる井戸は一〇基ある。
 ②上総堀りの井戸は、二〇戸あり発電機があればポンプアップできる。発電機は集落に五台ある。
 ③水稲育苗のため上総堀りの井戸一基あり、ヒューガルポンプでくみ上げることができる。
 ④自然自憤の湧水は水神池〈牛尾侭田地区〉小堤銘水〈集落より二キロの横芝町小堤〉がある。
 ⑤大きい桶、砂、小砂利、炭、 棕櫚の毛でろ過装置を作り飲料水を確保する。多古町は町営水道が停止しても非常事態宣言はしなかった。
 千葉県流山から給水車が支援に来た、また自衛隊が二日たってきたが、その前に私は発電機で井戸水をポンプアップしてもらって耕運機に水桶を並べて集落の各家に給水して歩いた。病者の居る家、子どものいる家、介護施設に通っている人の言え、独居老人宅、女性のみの家に給水した。
 町の防災無線の連絡は二割程度の人しか聞いていない。私は戸別訪問して今何が必要かを訪ね、安否を確認して歩いた。そして、克明に被害状況を写真に記録し役場総務課に届けた。私の集落には生活雑排水処理施設がある。停電で稼働しないので大型の発電機で稼働していた。
 和歌山県の電力会社の職員が支援に派遣されてきた。二時間交代二四時間勤務。非常食の連続と過労で体調を崩し、食欲がなくなってしまったとのことであった。私は弁当の食事をつくり果物を差し入れた。福島では放射能除去の危険な労働で作業者が多く体調を崩したことを知っていたからである。
 私自身の飲料水確保は①容器に確保した。②ポットに湯を沸かして置いた。③冷蔵庫で何本ものペットぼとるに水を入れ凍らせて冷蔵庫の食品を保護し、溶ければ飲料水とした。④非常食は買い求めてあるが、特別に玄米、白米をフライパンで焼いて蜂蜜と砂糖で練り上げて保存食を作った。⑤青竹で筒をつくり、米、水野菜、唐辛子を入れて御飯を炊く準備をした。⑥竹筒で湯を沸かしてみた。酒の癇もできる。⑥畠には野菜があり、今の季節は栗、柿、みょうが、柚子が食べられる。⑦水稲の収穫も終って一〇俵の飯米も確保してある。
 飲料水は自然から確保するのでなく、町営水道、コンビニ等で買って飲むもの、買って用意するもの意識が定着している。このことが事態を深刻化させている。