2024年4月28日日曜日

4月22日 横堀農業研修センター第2回裁判傍聴行動

 4月22日、横堀農業研修センター裁判の第2回裁判傍聴行動が行われた。 横堀農業研修センター裁判を支える会では、雨が上がった千葉県庁前で反対同盟旗と横断幕を広げ、アピールとチラシまき。チラシはすべてなくなった。
  千葉地裁では、601号法廷のある6階廊下で15分前に整理券配布、傍聴券への引換が行われた。
 13時半に開廷し、約30人が傍聴。
 裁判では空港会社が提出した追加の証拠を確認。
 次回、こちら側の反論の書面を出すことを確認。次回が7月1日であることを確認し裁判は終了。
 弁護士は裁判官、原告側弁護士と協議。
 閉廷後、裁判報告集会には31人が参加。
 清井礼司弁護士は「今日は口頭弁論ではなく、口頭弁論準備手続き。4月で裁判官が交代した。
 裁判官から早めに証人尋問実施を考えていると言われた。日程は未定。こちらは田村・成田空港会社社長の証人申請をしたが、これについてどうするか、原告会社側で決めるように裁判官は指示した。向こうが起こした裁判で社長が出てこないとなれば、やましいことがあると思われてもしょうがない。次回期日までに今日、会社側が出した準備書面に反論する」
 事務局は地番、図面での空港会社の訴状のでたらめさを指摘した。
 山崎さんから、ネギの収穫作業のため欠席した栁川さんのメッセージを紹介。
 被告の佐藤さんは「弁護士から被告としての自覚を高めよと言われたので、次回以降キリっと対応したい」
 壁画運動について宮下さんから呼びかけ。
 4月14日の横堀花見について中川憲一さんが報告、
 最後に次回7月1日の裁判傍聴、7月14日フィールドワークへの呼びかけが行われた。

2024年4月12日金曜日

4.7横堀農業研修センター(旧労農合宿所)裁判を支える東京集会


4月7日、横堀農業研修センター(旧労農合宿所)裁判を支える東京集会を開催した。
参加者は73人。主催は同裁判を支える会。

集会では、合宿所の歴史、活動を紹介した写真パネルがはりだされ、三里塚での様々な運動を撮った写真アルバムの展示も。
集会資料では、合宿所の歴史の年表、被告にされた柳川秀夫さんの陳述書などを配布。

集会第1部「労農合宿所の始まりと裁判」では最初に、89年合宿所囲い込み阻止のたたかいをえがいた「どっこい闘魂 ここにあり」(1989年、三里塚映画社)を上映。
 被告の柳川秀夫さん(三里塚芝山連合空港反対同盟)からビデオメッセージ。
第3滑走路建設で経済効果を生み出すという社会のあり方を三里塚は問うてきた。
裁判でも社会のあり方として、滑走路問題を主張していく。問題がある以上がんばっていきたい」
 被告の一人の佐藤幸子さんは「陳述書をまとめるときに思ったが、三里塚の闘いは歴史からすると早かった。地球的課題として物事を立てるべき。皆さんと共に最後の最後まで志を曲げずにやっていきたい」
 裁判についての事務局(繁山)から説明。
 
 続いて「対談 労農合宿所の始まりの物語」では宮下さんの進行で、労農合宿所が建設された1977年当時、廃港要求宣言の会の事務局長だった鎌田慧さん、同事務局員だった白川真澄さんが対談。
2人は、76年にいいだもも、針生一郎など新日本文学会の作家など文化人によって廃港要求宣言の会はつくられ、その前に戸村選挙(74年)で作られていた三里塚闘争に連帯する会と共に、全国に三里塚闘争の呼びかけを行ってきたこと。前田俊彦さんが廃港要求宣言の会代表、鎌田さんが事務局長となったこと。
前田さん、加瀬さんの提案があって、労農合宿所が機動隊の妨害を受けながら、77年4~5月共有地に建設され、団結小屋がない人々も全国から集まれる場所として広く使われてきたこと。
77年5月5日合宿所開設翌日の岩山鉄塔抜き打ち撤去、5・8闘争と東山薫さんが機動隊にガス銃で殺されたこと。前田さんが九州から合宿所に移り住み、後に近くにひょうまん亭を建てたことなど、当時の闘いを証言。


第2部は「合宿所・横堀農業研修センターと三里塚/私たち」
 大森武徳さんは子どものときに参加した子ども共和国についての思い出と現在の取り組みについて発言。
 原田さんがわくわくツアー、鈴村さんが田んぼくらぶ、木根さんがたくあん運動について報告。
裁判に対抗して取り組みが始まった横堀農業研修センターでの壁画運動呼びかけを宮下さんが行った。
 支える会呼びかけ人から、関西の渡邉充春さん。
 支える会から野島さんが第2回口頭弁論(4月22日)、第3回(7月1日)への傍聴行動など裁判支援の呼びかけ。
 最後に辻さんが、80年代性暴力問題を含めた合宿所年表についての説明と閉会あいさつを行った。